第4回 東アジアの平和のためのZENKO参加団 in 広島【報告】

シェアお願いします

2024年3月23日と24日、「第4回東アジアの平和のためのZENKO参加団 in 広島」を開催した。両日とも雨に祟られたが、当初予定した岩国~広島を巡るフィールドワークと企画をすべて実施し、関西から駆け付けた7人を含むのべ21人の参加で、中身の濃い学習と交流の場にすることができた。

1日目

岩国FW

初日は、12時半にJR岩国駅前に集合し、広島メンバーの車3台に分乗して、岩国フィールドワークに向かった。市役所前を通り過ぎて岩国南バイパスを進み、愛宕山トンネルを抜けてすぐ左下に折れると、南岩国町の緑ヶ丘住宅に接する愛宕山の山裾に何か所かの地下トンネルの入口跡がある。アジア太平洋戦争末期、1945年1月から6月にかけて、5千人の朝鮮人を動員して突貫工事で掘られた地下工場の入口跡だ。当時、呉市広町にあった旧海軍第11航空廠が空爆に備えて各地に分散移転(工場疎開)され、その一部がここ愛宕山の地下に移された。幅3~4メートル、高さ3.5メートル、総距離2キロにも及ぶ地下トンネルが網の目のように張り巡らされ、戦闘機「紫電改」の製造にあたった。

1945年6月に一応完成した地下工場だったが、戦闘機は結局1機も完成しないまま敗戦を迎えた。この地下工場は戦後ずっと放置されていたが、2002年末の段階で崩落の危険性等を考慮して全ての入口が封鎖された。住宅街の中にある緑ヶ丘街区公園は当時飛行機組み立て工場があった場所で、現在、岩国市がこの地下工場についての説明版を設置している。しかし、掘削工事に動員され多くの犠牲を伴った朝鮮人については、一言の言及もない。現在全国で11カ所の自衛隊基地司令部等の地下化が進められている。軍事拠点への空爆を想定した基地の地下化。過去に向き合うことなくの侵略戦争の歴史を消し去り、今また戦争準備を進める日本政府の姿が浮き彫りになる。意識して探さないと見つからない愛宕山の地下工場入口跡は、侵略戦争の愚を繰り返すなと、ひっそりと草葉の陰から私たちに語りかけているようだった。

愛宕山へ

その後、参加者は愛宕山に上った。かつて標高約120mあり岩国市内を見下ろしていた愛宕山は、1990年代後半から上部1/3が削られ、その土が岩国基地の沖合移設という名の基地拡張に使われた。当初1500戸の市民用住宅団地建設として始まった愛宕山開発だったが、結局それは頓挫し、国が用地を買い上げ、米軍の愛宕スポーツコンプレックスと将校級の米軍住宅Atago Hills(262戸)が造られた。莫大な税金を投入して建設されたぜいたくなスポーツ施設は、米軍に譲渡され岩国市が委託を受け管理している。格安の値段で多くの市民が施設を利用し、ますます基地に反対しにくいムードが醸成される。その中で毎月3回、今も見守りの集い(1の日行動)を開催し続け基地の存在に異を唱え続けておられる地元住民の闘いの重要性を確認した。

基地被害の酷さを体感

一行は、岩国基地を一望すべく尾津一の谷団地の頂上へ移動したが、雨天のため全長2440mの滑走路や最新鋭のF35ステルス戦闘機16機、オスプレイ2機を含む150機にものぼる戦闘機、輸送機等の機影を確認することはできなかった。さっそく基地北端の堤防へと向かうことにした。北端堤防では、雨天にもかかわらず何人もの軍機マニアの写真家たちが滑走路の方向に望遠レンズを向けていた。雨の中、かすかに輪郭を見せる格納庫や戦闘機を見つめていたその時だった。滑走路を飛び立ったF35Bが突如私たちの頭上で曇天をバリバリと切り裂くような爆音を轟かせた。肩を並べて立っていても話声が聞こえない。土曜日なので戦闘機の離発着には遭遇できないと思っていた参加者は、一瞬ではあったが期せずして基地被害の酷さの一端を体感することとなった。

爆音を響かせるF35B

第五師団歩兵11連隊の映像学習

初日の夜は広島に帰って、名物お好み焼きでおなかを満たした後、軍都廣島学習の一環として、戦前広島に置かれていた第五師団歩兵11連隊について映像を見た。大日本帝国陸軍の最強部隊と言われた歩兵11連隊は、1882年の「壬午事変」以降、日清日露戦争を経てあらゆる対外戦争に宇品港から出撃して行き、侵略を担った実働部隊であった。その11連隊がマレー半島で犯したスンガイル村虐殺事件、病院船偽装という国際法違反を犯して武器や兵士を移送しようとして1500人が一挙に拿捕された橘丸事件等の史実が描かれていた。元11連隊の軍人であった老人たちが「軍隊の中では命令には逆らえなかった。」「戦争はするものではない。」等と口々に証言していた。映像を見た後、参加者は活発に感想交流、討論をした。歩兵11連隊に関する史実が知られていない中、それを学習することの意味を確認しつつも、映像の中で証言をした元軍人たちが一体どのような立場で戦後を生きて来たのかが論点となった。侵略戦争の真の反省は、現在の大軍拡、敵基地攻撃をする戦争準備への抵抗を抜きには語れない。

2日目

平和資料館見学〜講演「軍都廣島の歴史」

2日目は、朝8時半に平和公園資料館前に集合し、資料館の見学をした後、9時半から講演学習会「軍都廣島の歴史」を開催した。講師は日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク事務局長の岡原美知子さん。岡原さんは、日清戦争の直前に国鉄が廣島まで開通し、突貫工事で広島駅と宇品港に線路を敷き、軍都廣島が形成された歴史を詳細に説明された。日清戦争開戦の1894年には大本営が今の広島城内に設置され首都機能を持っていた事も含め、参加者は広島が1945年8月6日の原爆攻撃以前に果たしていた軍都としての役割を学習した。「慰安婦」問題についても詳しく説明された中で、朝鮮の若い女性が100人単位で船に乗せられて、宇品港から南の戦地に運ばれていたとう証言(杉原いほ「ビルマ従軍の思い出」)等も紹介された。

岡原さんは講演を栗原貞子の詩「ヒロシマというとき」で締めくくられた。

〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

(詩集『ヒロシマというとき』 1976年3月)

平和公園内FW

講演後、参加者は碑巡り案内人の平原敦志さんのガイドで平和公園内のフィールドワークを行った。出発点の資料館東館北側のアオギリの木の隣に、G7サミットを祈念する建物が建設中であった。被爆地広島の願いである核兵器廃絶を究極の後景に追いやり、核抑止力を肯定する「広島ビジョン」を発したG7を記念して建てるという。広島市の平和行政の変質、被爆者への冒涜ではないか。一行は韓国人慰霊碑、原爆供養塔と回り、原爆ドーム前で昼休憩に入った。

山内若菜 広島展

午後は旧日銀広島支店で開催されていた「山内若菜広島展―過去と現在、そして未来―」を参観した。ほとんどの参加者が山内若菜さんの作品を直に見るのは初めてだったので大変貴重な機会となった。会場では、若菜さんご本人が作品の制作にあたっての思いを解説してくださり、福島・広島・長崎の三部作や大久野島、放射線をモチーフにした作品の数々をじっくり鑑賞することができた。

終わりに

最後に会場近くの喫茶店で参加団は二日間を振り返って感想交流会をした。今回の参加団では、岸田政権による現在の大軍拡、敵基地攻撃能力の保有、全国の基地強靭化、さらなる日米軍事一体化の最前線としての岩国基地強化の実態だけでなく、戦前の侵略戦争末期に朝鮮人を動員して行われた軍事基地の地下化の跡を現地で視察した。広島では、1945年8月6日の原爆攻撃から始まるヒロシマ学習ではなく、その前史である軍都廣島の歴史を学習した。現在、岩国から広島湾をはさんで向かい側にあたる呉では、日鉄跡地に巨大な軍事拠点を造る計画が持ち上がっている。これからも全国の仲間と連帯して、自分たちの足元で着々と進む戦争準備にNO!の声をあげていきたい。

(ZENKO広島:日南田成志)