ZENKO広島は、6月19日の夜、Zoom講演会「在日コリアンから見た被爆地広島」を開催し、県内外からの70名の参加者で実りある講演会にすることができました。
6月19日~20日の週末には、「第3回東アジアの平和のためのZENKO参加団in 広島」を計画していました。が、5月16日に発せられた緊急事態宣言が6月20日まで延長されたため、資料館等の閉館が続き、予定していた行程では開催できなくなってしまいました。そのため、当初の企画にあった講演会の部分を開催可能な形態で実施したものです。徹底したPCR検査による感染者の早期把握、保護などのまともな対策をせずにコロナ禍を長引かせ、一方で沖縄基地建設や軍事演習を強行し続けている政権のもとで、私たちはただ自粛したまま私権制限の緊急事態宣言を受け入れていることはできません。
今回ご講演をお願いした李昇勲(イ・スンフン)さんは、韓国生まれの移住労働者。
1965年に韓国で生まれ、1980年代の民主化運動を経験、2002年に来日され、団体職員として、広島で平和・人権問題に取り組んでこられました。
李さんは、「ヒロシマは平和への出発点ではあっても、終着点になってはならない」との問題提起で講演を開始されました。原爆資料館の展示を紹介しながら、来館者にどのように被爆の史実が伝えられているか、検証。資料館の次のようなメッセージを紹介されました。
「一発の原子爆弾が、無差別に多くの命を奪い、生き残った人々の人生も変えました。広島平和記念資料館は、被爆資料や遺品、証言などを通じて、世界の人々に核兵器の恐怖や非人道性を伝え、ノーモア・ヒロシマと訴えます」
李さんは、しかし、資料館の展示内容には、1937年の「渡洋爆撃」と呼ばれた上海爆撃や、1938年の南京虐殺、1938年の重慶爆撃などが触れられていないことを指摘。
戦前の廣島の街の描写も、「びっしりと建ち並ぶ家々、ドーム型の屋根の広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、通りを走る路面電車、商店街のにぎわい、子どもたちの笑顔、被爆前の広島には多くの人々の暮らしが息づいていました」と記載されていますが、実際には、1930年代以降は15年戦争真っただ中で、子どもたちの学校生活も建物疎開への動員や学童疎開、軍事教練など、軍事化に支配されていました。
また何もないように見える日常の廣島の街並みも、侵略戦争を支えた数多くの軍事施設がいたるところに置かれた軍都でした。
このような歴史が来館者の視野から消し去られてはならないこと、そしてそのような軍事化の一つの帰結が広島、長崎への原爆投下であったという歴に認識が大切だと語られました。
「平和という時には、①国または地域が民主主義か、②人権、すなわち「人の権利」が守られているのか、③ 国または地域が自由な社会か。が基準になること。とりわけ、人々が自由に生きられるための基本的人権が保障されているのかどうか、が大切だ」と強調されました。
そして、広島が単なる「平和行事の街」にならないためには、また軍都廣島の歴史を忘れ去った「忘却の街」にならないためには、今再び強まる戦争準備の動きに対してしっかりとNoの声を上げていくことこそ問われているのではないかということを、参加者に深く考えさせるお話しでした。講演の最後に、栗原貞子の「ヒロシマというとき」を朗読されました。
事後、Zoomで参加された方から多くの感想をいただきました。途中でWiFiの電波状態が悪くなり、画面や音声が一部途切れてしまいました。せっかく参加して頂いた皆さまにはご迷惑をおかけしたことをこの場をお借りしてお詫びいたします。最後に、李さんがご講演の最後で朗読された栗原貞子の「ヒロシマというとき」を掲載させていただきます。
〈ヒロシマ〉というとき
『ヒロシマというとき』栗原貞子
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パールハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返ってくるのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せなばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
わたしたちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない
(ZENKO広島:日南田)