3・27 ZENKO広島 旧海軍第11航空廠岩国師匠跡フィールドワーク【報告】

2022年3月28日

3月27日、ZENKO広島企画で、旧海軍第11航空廠岩国(愛宕山)支廠跡フィールドワークを実施した。前日の冷たい風雨が嘘のように、当日は日差しの暖かい好天となった。2台の車に分乗して11時少し前に現地に着いた一行6名は、愛宕神社前公園を散策していると、まもなく田村さんと合流した。田村さんはおもむろにリュックサックを開けて、当日資料ということで、山口県朝鮮人強制連行真相調査団の中間報告及び最終報告のパンフレットを取り出された。該当ページを6人分コピーしてくださっており、みなが貴重な資料として大切に受け取った。

1990年代に入り、全国各地で朝鮮人強制連行真相調査団が結成され、地元の強制労働の跡の調査が展開されたが、山口県では全国の動きの後を追うように1993年に調査団が結成され、ここ岩国地区では、当時岩国市職労委員長であった田村さんが団長となり、朝鮮総連の組織的なバックアップも受けながら、この愛宕山一帯の地下トンネルを調査したとのことだった。

さっそく、南岩国1~2丁目付近の地下トンネル入口跡の現場へと車で移動した。位置的には、愛宕山にそびえる国立岩国医療センターの大きなビルから、真正面を下った山の麓あたりになる。歩けばほんの数分かもしれない。車では少し大回りになるが、南岩国町側をぐるりと回って向かった。車がとある橋を渡った時、田村さんが助手席で、「今の橋も〇〇が取り外してあるんよ、飛行機を通らせるために。」と言われた。

私は何のことかよくわからず聞き流していたが、後にいただいた資料を読むと、空爆を避けて飛行機を地下トンネルに避難させる際に、翼の邪魔にならないように擬宝珠(ぎぼし)を欄干から取り除いてあり、今もそのままになっているということがわかった。

ほどなく現地に到着した。愛宕山地下トンネルは、総延長2キロ、大きなところでは高さ3.5メートル、幅4~5メートルもある巨大な飛行機製造地下工場であった。第1区(翼:萩谷住宅東側)、第2区(胴体:緑ヶ丘住宅北側)、第3区(部品加工:山中団地南側)の3区分があり、それぞれの区画に網の目状に地下トンネルが掘られていた。

私たちが見学したのは第2区、緑が丘住宅地の山際に点在する地下トンネルの出口だ。1993年に田村さんらが調査された時点で、既に第1~2工区は安全上、非行防止上の理由等で閉鎖されており、第3工区はまだ埋められておらず中に入れたという。その後、岩国南道路が建設されることになりちょうどそのルートにあたった第3工区の地下トンネルも2014年以降埋められたため、現在では中に入れるトンネルはない。

南岩国2丁目にある緑が丘街区公園を訪れた。ネット上にも情報があったように、岩国市が説明版を設置していて、地下トンネルがあったこと、紫電改の製造にあたっていて、この公園の場所で部品の組み立てが行われていたこと等が記述されている。が朝鮮人労働によってトンネルが掘られた史実の記述はない。このあたり一帯は、元岩国市議田村さんの地盤の中心地で、今も月1回の個人機関紙「おはよう愛宕山」の配布をしておられるため、道中出会った地域の人からは必ずお元気ですかと声がかけられていた。その後、少し移動して民家の裏庭を入ったところに、奥行きが10メートル程度あるトンネルの入口を見学させてもらった。入口までの壁面はすべてコンクリで打ち固められているが、ひんやりして、半ば民家の物置になっていた。

1945年に入り本土空襲がいよいよ本格化した。呉軍港が3月10日に空襲を受け、広海軍第11航空廠も各地に工場疎開することが計画された。その中で愛宕山に地下工場を建設し、そこで紫電改を月産40機製造する計画だった。1945年1月に着工、約5000人(そのほとんどが朝鮮人労働者)を動員して突貫工事が行われ、6月に完成したという。工事期間中、現在の南岩国4丁目の海土路(みどろ)地区などにあった飯場から鶴嘴の様な工具をかついだ朝鮮人労働者が地下トンネルに通う姿をよく見かけたとの目撃証言が記録されている。

この地下トンネルの存在については、1987年8月に、中国新聞田中伸武記者(現府中町議)が10回の連載記事を書いて大きな注目を浴びた。が、朝鮮人労働の介在については後の調査にゆだねられることになり、冒頭のべたパンフレットにまとめられているように、90年代初頭に全国で始まった朝鮮人強制連行真相調査団の活動によって明らかにされた。現地の老人の聞き取り調査や地下トンネル第三工区の内部調査、さらには地元のすべてのお寺に朝鮮人労働者の遺骨を預かっていないか問い合わせる等の調査がされた。

お寺関係では唯一龍門寺(当時南岩国尾津団地入口付近、現在は岩国市通津(つづ)に移転)から返事があり、20名余りの名簿と9柱の遺骨が保存されていることが判明。調査団では、このお寺で法要をして調査に臨んだという。

並行して、田村さんは市役所内で、当時の朝鮮人強制連行にかかわる公文書が残っていないか職員に聞き取り調査を続け、市役所の地下室に関連文書が一部残っていることを発見。中でも具体的な朝鮮人の名前や出身地、死因などが記載された「埋火葬認許証」の存在を突き止めたという。

敗戦当時、日本は数々の戦争犯罪を隠ぺいするために、軍関係の重要書類を焼却処分するように指示をだし、国内外で重要書類が焼き捨てられたが、焼却を免れた書類が一部残っていたのだ。この「埋火葬認許証」にある死因には、栄養失調や轢死など、劣悪な環境での病死、事故死、暴行死等を疑わせる死因が多く確認されている。田村さんらは岩国市に対してこれらの文書を正式に公開するよう交渉を続け、岩国市も誠実に対応したとのことだった。

私たちは、ここから錦帯橋紅葉谷にある「六角亭」に足をのばすことにした。「六角亭」は、現在はソウルのベッドタウンとして発展している高陽(コヤン)市の、李氏朝鮮時代の宿泊施設「碧蹄館(へきていかん)」にあった建物で、説明版には次のように説明されている。「六角亭は、古くから韓国各地において身分の高い人々が、景観の良い場所に建て憩いの場所として利用されたものだそうです。この地にあります六角亭は、韓国京畿道碧蹄館(京城「現在のソウル」の北約20キロメートルの地点にある地名)付近にあったもので、1918年に到来したものであるといわれております。」

「到来した」とは何とも奇妙な記述ではないか。建物に羽が生えて飛んできたのか。1918年当時、寺内正毅初代総督を継いで第二代朝鮮総督をしていたのが、岩国市出身で大日本帝国陸軍大将にまでなった長谷川好道であった。

現在「岩国練武場」(岩国3丁目)という剣道の道場になっているのが彼の生家で、地元岩国では「元帥」としてあがめられている。しかし彼が第2代朝鮮総督であった1916~1919年といえば、植民地朝鮮で徹底した「武断統治」がしかれた最中である。彼は1919年3月の3・1独立運動を弾圧した張本人ではないか。そのような時代に、植民地側から弾圧の張本人に大切な歴史遺産が仮に「贈呈され」たとしたら、それはそれでちゃんと「贈呈された」と説明版に書くべきだ。そう書けないのは、やはり違法に持ち出したからだ。

事実、徴用工問題や「慰安婦」問題に対する日本政府の犯罪的な対応が続く2013~4年(橋下徹の「慰安婦は必要」発言が2013年)には、高陽市から岩国市に対して返還要求がなされている。岩国市はこの要求には背を向けて正式な回答をしないまま今もお茶を濁し続けている。田村さんによれば、結局この返還要求に応える世論の弱さが岩国市の無責任な対応を許したとのことである。

今回のFWは、これまでZENKO広島が関西や関東からの仲間を迎えて開催してきた「東アジアの平和のためのZENKO参加団in広島」の企画内容をさらに深めて、東アジアの仲間との共通の歴史認識を育むため、現在の岩国の基地増強ぶりに加えて、岩国の朝鮮人強制労働の歴史を学ぶきっかけをつかむために実施した。

昼食で食べた岩国寿司

ネット上ではほとんどその情報が得られない中、当日田村さんから90年代の貴重な取り組みを伺うこととなり、想定以上の学習の場とすることができた。

現在、ウクライナ危機に乗じて「核共有」「9条改憲」「敵基地攻撃能力の保有」が公然と語られている。それらは全て、侵略と植民地支配、強制連行と強制労働の歴史を改竄し、再び侵略戦争を実行するための議論である。私たちは、そのような歴史を顧みない破廉恥な勢力に対して、侵略と植民地支配、強制連行と強制労働の歴史を学び、記憶し、今と次の世代に語り継ぐ営みをさらに広げていきたい。

(日南田記、2022年3月28日)