2021/3/27~28@呉&広島
3月27日~28日の週末、第二回になる「東アジアの平和のためのZENKO参加団in広島」を実施した。昨秋の岩国~広島から、今回は呉~広島とコースを変えて、軍港呉と軍都廣島を巡った。
戦争美化の大和ミュージアム
初日の昼過ぎ、JR呉駅前に集合した総勢25名ほどのメンバーは、簡単な自己紹介の後、ピースリンク広島・呉・岩国の西岡由紀夫さんの案内で、さっそく歩道橋伝いに「大和ミュージアム」へと向かった。
戦前、侵略戦争の拠点だった呉、佐世保、横須賀、舞鶴の4港湾都市は、戦後、「旧軍港市転換法」によって、「旧軍港市を平和産業港湾都市に転換することにより、平和日本実現の理想達成に寄与する」(第一条)とされた。呉は本当に「平和産業港湾都市」に「転換」されたのだろうか。
真の意味で「平和日本実現の理想達成」に寄与するためには、まず侵略戦争の総括が不可欠だ。が、「大和ミュージアム」の展示にそのような観点は皆無であった。
一貫して主張されるコンセプトは、「世界に冠たる巨大戦艦の製造こそが、日本の近代化、戦後の経済発展の礎になった」という、加害責任を不問にしたままの戦艦大和美化論であった。館内に明治以降の年表が掲示してあった。
日本が韓国を植民地化(韓国併合)した1910年を見ると、植民地化の記述は一切なく、海軍の潜水艇が岩国沖で無謀な潜水訓練の末沈没して乗員が全員死亡、佐久間艦長の遺書が戦国美談として広められた第六潜水艦沈没事故のみが記されていた。
歴史の見える丘、噫(ああ)戦艦大和塔
次に一行は「歴史の見える丘」へと移動した。宮原小学校の前にあるこの場所からは、戦艦大和を建造した呉海軍工廠の造船ドックや後方を山に囲まれて敵からの襲撃を受けにくい地形の呉が軍港都市として形成されてきた歴史を見渡すことができた。
戦艦大和が建造されたドックを覆っていた大屋根は今も残っており、現在はJMU(ジャパンマリンユナイティッド)という民間船舶企業が軍艦の修理・補修専用のドックとして使用している。
「噫(ああ)戦艦大和塔」の前でガイドの西岡さんから、「戦艦大和が就役したのは1941年だが、すでに米英では航空戦が主流となり空母の時代へと移行しつつあった。その中で、市民には窮乏生活を強いながら、莫大な国家予算を投入して建造された巨大戦艦がどれほどばかげた時代錯誤の大艦巨砲主義であったことか。」との説明を受けた。
まさに、戦艦大和はアナクロニズムの象徴であった。
海上自衛隊呉基地
車で10分ほど移動して、海上自衛隊呉基地を観た。東側からA、S、F、E、Dと五つのバースに潜水艦、護衛艦、掃海艇、音響測定艦等が所狭しと密集して停泊していた。何と全部で40隻もの艦艇が所属しているとのこと。今や横須賀と並ぶ国内最大の軍港だ。
この基地は海岸を通る公道に面しており、道行く人が直に見学できるようになっている。
Eバースには、他の艦船よりひときわ巨大な護衛艦「かが」がいた。
全長248mの巨体は、戦艦大和(263m)に匹敵するほどだ。建造費1170億円。垂直離発着可能なF35Bステルス戦闘機搭載可能な空母へと改造する計画が着々と進められている。戦争放棄の憲法9条をもつ我が国になぜこのような空母が必要なのだろうか。
またEバースには米海軍埠頭(Pier 6)、米軍の秋月/広/川上3弾薬廠司令部(Camp Kure Commissary)、在日米軍宿舎も置かれていて、星条旗が掲げられていた。
和庄公園防空壕跡供養塔
呉FWの最後に「和庄公園防空壕跡供養塔」にお参りした。
1945年に入り呉市は6回にわたって空襲を受けた。その中でも7月1日深夜から翌日未明にかけての市街地への焼夷弾攻撃は激しいもので、呉市全体が火の海と化し、約2000人の市民が亡くなった。
中でも和庄地区の被害が最も大きく、現在の和庄公園の脇にあった防空壕では500人(一説によれば800人)もの市民が、出口付近では焼死、すし詰めになって避難していた壕の内部では窒息死し、それこそ蒸し焼き状態で亡くなったという。
被害者には幼い子供や女性、お年寄りが多く、供養のためのお地蔵が建てられている。軍港があったが故の大空襲であった。
山内正之さんの講演「大久野島の歴史~日本の侵略戦争と毒ガス製造」
FWを終えた一行は、ビューポート呉に結集。取り寄せた広島風お好み焼きで夕食を済ませ、山内正之さん(毒ガス島歴史研究所事務局長、大久野島から平和と環境を考える会代表)の講演に臨んだ。
昨年5月に2泊3日で企画していた第1回参加団は最終日大久野島現地に渡る予定にしていたが、残念ながらコロナ禍で参加団自体を中止せざるをえなかった。
大久野島は呉からさらにJRで一時間ほど東方に進んだ竹原市の沖にあり、今回の1泊2日の行程にはどうしても含めることができず、山内さんにわざわざ呉まで来ていただいて、講演が実現することになった。
「大久野島の歴史~日本の侵略戦争と毒ガス製造」というタイトルで、詳細な資料に基づいて作成されたパワポを使いながらわかりやすく語っていただいた。
日露戦争時代の芸予要塞、第二次世界大戦での毒ガス製造、そして戦後の朝鮮戦争時の弾薬庫と、三度戦争に利用された島の歴史を1時間半の講演時間をめいっぱい使って網羅的に話していただいた。
過去の戦争遺跡を巡り、そこにあった人類の愚行を思いやり、二度と繰り返さないために戦争への企てを見抜いて平和の決意を固める、そのような旅をダークツーリズムと呼ぶらしいが、今回のFWもその範疇に入るのかもしれない。
しかし今や呉は「海軍さんの町」をキャッチフレーズにして、ダークどころか、きわめて明るく観光化してしまっている。過去の教訓に学ぶどころか、大日本帝国海軍の過去の「栄光」を引き継いだ海上自衛隊の軍港市として、政府の大軍拡政策を今また後押ししている。
山内さんは、近年、大久野島毒ガス製造のことがほとんどマスコミでも取り上げられなくなっていることに危機感を抱かれ、これまでの研究と取り組みを一冊の本にまとめられた。
「大久野島の歴史―三度も戦争に利用され地図から消された島」である。過去の戦争から学ぶには、戦争被害の側面だけでなく、戦争加害の側面に向き合うことが必須であり、加害責任を政府に果たさせなければならないことを強調された。自らも、戦後、中国の毒ガス被害者との交流を続けてこられた。
戦争を拒否し平和を切り開く和解の取り組み、市民として加害責任を受け止め、和解への国際連帯の活動として貴重なお話しであった。
なお、この講演会はZoomでも配信し、関西や北海道からの参加者もあった。
平和祈念資料館
翌日28日は残念ながら雨天となった。それでも参加者は予定通り朝一で呉から広島市へと移動し、8時半に平和祈念資料館の見学を開始した。
2年前に耐震工事と合わせて展示内容もリニューアルされた資料館に県外からの参加者はどのような印象を持たれたことだろうか。被爆地広島も呉と同様観光地化が進んでいる。原爆ドーム周辺にも観光客をあてこんだ商業ビルが新設されている。
意識的に加害の視点をもってみなければ被爆地広島も被害者意識だけを醸成する観光地の一つになりかねない。
多賀俊介さんのお話「平和公園と朝鮮人」
さて10時から多賀俊介さん(廣島・ヒロシマ・広島を歩いて考える会)に「平和公園と朝鮮人」というタイトルでお話をしていただいた。
多賀さんは、現在平和公園になっている旧中島地区にも朝鮮人が住んでいたこと、太田川上流の発電のためのダム建設や市内の三菱重工での過酷な労働中に被爆したことなどを、資料に基づいて解説していただいた。
120万の人口を抱える「国際平和都市」広島で私たちが日常的に使用している電力が、戦前の朝鮮人労働者を酷使して建設されたダムから送られている事実を認識している市民は少ない。
今は公園内にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」についても、この碑が日本人の手によって建てられたものではないこと、広島の地で被爆して亡くなった3万人とも言われる朝鮮人に対して謝罪し追悼する碑は、まず日本の行政が、私たち日本人が建設すべきものではないか、という問題提起をされた。
その点を抜きにしてこの碑の移設の経過や統一碑の問題を語ることはできないことを肝に銘じたい。
平和公園フィールドワーク
講演のあと、雨中の平和公園FWへと移った。今回も碑めぐり案内人の平原敦志さんにガイドをお願いした。
丹下健三設計による平和公園の中心軸に沿って、資料館の中央下から、原爆死没者慰霊碑、平和の灯、原爆の子の像、平和乃観音像(中島本町町民慰霊碑)、韓国人原爆犠牲者慰霊碑、原爆供養塔、相生橋、原爆ドームと見て回った。
日頃から、平原さんは、「慰霊碑や供養塔は、見学するところではなくお参りするところだ。」と言われている。
今も引き取り手のない遺骨が収納されている供養塔の前の広場はこの度改修されて敷石が張りめぐらされていた。今も地中に遺骨の眠る場所である。
広島城周辺の戦跡へ
昼食休憩をはさんで県庁前バス停に再集合した一行は、藤原浩修さんの案内で広島城周辺の戦跡へと向かった。
広島は1894年に始まった日清戦争で本格的な軍都となる。1984年9月から1896年4月まで広島に大本営が置かれ、臨時首都として政府機能が集中していた。
県庁前バス停から東方向に広がっていた西練兵場内、現在の県庁東館の南側付近に、広島仮議事堂が設置され、第9回帝国議会も開かれている。
一行は傘をさしつつ、徒歩で内堀を超えて広島城内に入った。
1871年の廃藩置県で広島城に熊本の鎮西鎮台第一分営、1873年には正式に鎮台となり、1888年にはこれが第五師団と改称された。
藤原さんは、当時の鎮台が内戦鎮圧のための拠点であったのに対し、師団は対外戦争の拠点として変貌したものだと強調された。
広島の第五師団は以後、全ての海外派兵で日本軍の中心として宇品港から送り出されてきた。
中国軍管区司令部慰霊碑〜
中国軍管区司令部慰霊碑前では、地下通信室から被爆第一報を伝えた当時の比治山高女3年生、故岡ヨシエさんの手記を読み合わせて、原爆投下直後の惨状を追体験した。
その後、戦後この地に移設された護国神社の前を過ぎて、大本営跡、歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡と見て回り、最後に広島陸軍幼年学校の門柱前に至った。
天皇制軍国主義を支えた日本軍のエリート教育のスタートが当時の陸軍幼年学校であった。
異常ともいえる精神主義、人権の無視、兵站の軽視、この三つの要素を徹底的に叩き込まれてこの地でエリート軍人の卵が養成されていった。
その結果、日本人の死者310万人(その2/3が餓死)、アジア諸国の死者2000万人以上であった。
ZENKO参加団 in 広島を終えて
陸軍幼年学校前で解説を聞いている頃、朝から降り続いていた雨がようやくあがった。
1泊2日の強行スケジュールで実施した第二回目「東アジアの平和のためのZENKO参加団in広島」も無事終了した。
今や日米両政府はマスコミを総動員して、中国脅威論を前面に押し立て、新基地建設、大軍拡に突き進んでいる。
私たちは、冷静に過去の戦争体験から学び、消し去られようとしている加害の史実を学習し、記憶し、伝えていきたい。
アジアの市民と連帯して平和を切り開くために。
(ZENKO広島・日南田)