
昨日13日スタートしたZENKOパレスチナ連帯ツアー。広島集会を担ったZENKO広島/日南田氏からの報告です。
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広島集会は30人の参加で、成功しました。
日中、訪問した平和公園には、多くの小学生が平和学習に訪れていました。
資料館を出た所の広場に、ある小学校の子どもたちが1面を陣取って地面に腰をおろして担任の先生と何やらがやがやと楽しそうに話し合っていました。
アローシュさんはその様子を後方から眺めて、私にこう言いました。
「私は小さな子どもたちを本当に腹の底から大声で笑わすことのできる人がいたら、その人に私の人生の半分を捧げてもいいと思っている。」


集会は、冒頭で上の話を紹介し、「世界中の子どもたちが本当に腹の底から大声をあげて笑える世界を作ろう、そのために、何ができるのかを考える時間にしよう。」と、始まりました。
アローシュさんは、用意されたスピーチ原稿に広島訪問の想いも加え、さらに質疑応答の時間では、これまで沈黙を続けた国際社会にパレスチナの思いを伝えたいという強い気持ちが溢れるように熱弁を振るわれました。
以下は、彼が広島から横浜へ移動する新幹線の車中で書かれた詩です。
広島…火と人間の記憶
ムハンマド・アローシュ
私の広島訪問は、単なる地理上の旅ではなかった。
それは人類の記憶の深層への旅路だった。
約80年前に原子の火で焼かれたその場所では、傷はいまだ開いたままだが、
同時にそれは平和のメッセージとなり、老いることのない人間的な呼びかけへと変わっていた。
平和記念公園──痛みの灰の上に芽生えたあの緑の広場を、
私はゆっくりと歩いた。
まるで、土の中で眠る魂たちを起こしてしまうのを恐れるかのように。
穏やかな木々、子どもたちや訪問者が枝に結びつける色とりどりの折り鶴は、
あらゆる出来事を超えて「生き続けよう」とする願いそのもののようだった。
原爆ドーム(げんばくドーム)に近づいた。
人間の狂気の瞬間、そして日本人の「瓦礫を光る記憶へ、永遠の文明的メッセージへ」と変える独特の力を、
あのドームはずっと証言し続けている。
名もなき犠牲者の慰霊碑の前では、私は長い時間立ち止まった。
碑を残すことも、墓を持つこともできずに空へ昇っていった数万の魂。
彼らは統計が語る「数字」ではなかった。
顔があり、夢があり、名前があった。
川辺で遊ぶ子ども、
暮らしを焼き上げる女性たち、
そして来ぬ明日を夢見る男たちの姿があった。
いま静かに橋と庭園のあいだを流れる太田川は、
かつて火の川だった。
無数の遺体や断片、秘密を運んだその川の前に立ち、
私はきらめく水面を見つめた。
まるでその水が、爆発の残響と人間の痛みの名残を
時を越えていまなお抱いているかのようだった。
広島がその灰の中から立ち上がったこの街で、
私はガザの今日の姿が頭から離れなかった。
犯罪は同じで、人間も同じだからだ。
博物館の展示パネルに映る爆発の瞬間には、
ガザの子どもたちのような顔があり、
破壊された家々はシジャーヤやラファの廃墟と重なり、
そこに宿る悲しみの眼差しもまた同じだった。
広島のあらゆる場面に、私はパレスチナの反響を見た。
歴史が新しい名前と、より近代化された殺戮の道具を使って、
再び自らを繰り返しているように思えた。
夕方、ZENKO(平和と民主主義のための全国交歓会)が
私のために開いてくれた集会は、
もう一つの記憶の場となった。
多くの日本の市民がパレスチナへの連帯を示すために参加しており、
私は彼らの感情の誠実さと深い人間的理解を感じ取った。
広島は自らの灰から立ち上がった街として、
今日ガザの炎へ手を差し伸べ、
「私たちもこの道を通った。
空の下で子どもが焼かれる意味を、私たちは痛いほど知っている」と
語りかけているように感じた。
集会後、日本の仲間たちと共にした温かな夕食会は、
質素な宴ながら、テーブルよりも心が温かかった。
私たちは共通の人間的闘い、
戦争のない世界への夢、
そして決して死なない記憶について語り合った。
その日の昼、集会の前には広島名物のお好み焼きを味わった。
多様な味が重なり合うあの一皿は、
まるで広島という街が「悲しみと希望」「破壊と再生」を同時に抱く姿のようでもあった。
広島を後にし、新幹線で東京へ向かう道中、
私は数えきれない光景を心に抱えながらも、
一つの確信に満たされていた。
──どれほど戦争が激しくなっても、この世界は愛によって癒やされ、
連帯によって立ち上がり、
「戦争反対」をひとつの声で叫ぶ力を持っている。
ガザから広島へ。
結局、人間が本当に死ぬのは「忘れた時」だけなのだ。
広島は忘れない…
そしてパレスチナも決して忘れない。

最後まで、一人でも多くの仲間に声をかけて集会へ誘いましょう。
残るは、11月15日(土)神奈川集会と、16日(日)大阪集会です。
