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私たちZENKOと韓国の市民団体「代案文化連帯」の呼びかけで1月10日~13日「日韓ユース参加団in沖縄~命どう宝 私たちが東アジアの平和をつくる~」を行った。日本と韓国の10~30代の青年ら約40人が沖縄を訪れ、平和をテーマにフィールドワークを行った。
参加団は1日目に平和祈念資料館などで過去の沖縄戦を学び、2日目の辺野古の連帯行動で現在造られようとしている基地の問題を学んだ。3日目に嘉手納基地、普天間基地の今なお続く基地の問題を学び、最終日に平和のための日韓ユース共同声明としてまとめられた。
沖縄と同様に「平和ではない社会」を生きる日韓の若者は、この社会を変革する共通の課題と連帯の力を確認し合った。
「平和をつくる日韓ユース共同声明」 日本語ver. 韓国語ver.
◎1/10(木)〔1日目〕 ~過去の沖縄戦から学ぶ戦争の実相~
那覇空港に集合する。初めての対面に少し緊張した面持ちである。空港での結団式を行い、バスで南部の糸満市に向かう。
まず韓国人慰霊塔を訪れた。沖縄には多くの朝鮮半島出身者が徴兵、徴用として強制的に連行され、沖縄戦では1万人以上死亡、あるいは虐殺されたと言われている。異国の地で命を落とした朝鮮半島の人々が魂だけでも本国に帰れるようにと矢印が描いてある。
平和祈念資料館は不発弾やガマの展示など戦争の実態を生々しく伝え、亡くなった子どもの写真や戦争の証言に胸が痛くなった。
平和の礎は波のようにジグザグになっている。これは平和の波が世界に広がるようにとの思いが込められている。特徴として軍人も住民も分け隔てなく刻銘している。また戸籍などが燃え、名前が分からず「〇〇の二女」などと刻銘されている場合もある。
韓国人の礎も遺族に意義を説明し、刻銘してきた歴史がある。しかし、ここには男性の名しか書かれておらず、慰安婦にされた女性たちは遺族の方は載せたくないとの思いがある。
1泊目、2泊目はネイチャーみらい館に宿泊。1日目は焼きそばだ。サラダチーム、焼きそばチーム、資料作成チームに分かれて作業する。一緒に料理を作ることでだんだんと打ち解けてくる。
日韓ユース参加団in沖縄の1日目の夜の交流会。明日、辺野古へ持っていくバナーを作成する。感想交流では様々な思いが語られた。
▶「韓国と日本の間に越えられない壁があると感じていたが、違う部分もあれば同じ部分もある。平和の礎に米軍の名前も書かれてあり、沖縄も韓国もアメリカも同じ痛みを抱えていると感じた。過去の問題、そして明日の辺野古の問題を通して、韓国と日本が同じ痛みを抱えている存在であるとわかる」▶「一番ショックを受けたのは平和祈念資料館で小さい子が悲惨な顔で亡くなっている写真。沖縄についてから数時間であるが、平和とは何だろうと考えさせられた」▶「日本人、韓国人という立場を越えてここに集っていることに意味がある。私は、日本に対して韓国を植民地にしたことに謝罪を要求するが、自国政府に対しても韓国がベトナム戦争に対して行ったことについて謝罪しろという立場である。世界人として繋がっていることを確認することにいみがあるのではないか」▶「平和祈念資料館に行った時、ヤバイと思った。なぜなら日本の本土にはこのような資料館がなきから。日本に来るまではなぜ集団自決をしたのか気になっていたが、その理由が分かった。済州島でも悲惨な事件が起きてから40年くらいしてその証言が出てきた。分かることは戦争が終わってからも苦しい思いを抱えてきたということ」
◎1/11(金)〔2日目〕 ~辺野古で今進められている“戦争”~
この日は辺野古新基地建設阻止の闘いを通じて、今目の前で進められている〝戦争〟の実態を見る。この日は搬入がなく、キャンプ・シュワブゲート前のテントで集会が行われた。瀬長さんに辺野古新基地建設の経緯について丁寧に説明を受ける。
辺野古新基地は基地負担の縮小どころか、今後100年基地の存在を許してしまうことになる。沖縄に集中する米軍基地はかつての日本軍基地や米軍が新設したものだ。しかし、辺野古は戦後初めて日本政府が新設し、提供する基地となる。沖縄戦の悲惨さを経験した人びとが次なる戦争を準備する基地を認める訳がない。新基地阻止に座り込む人びとの思いを知ることとなる。
韓国メンバーの「座り込めここへ」の合唱には参加者から拍手が上がった。
浜テントでは田中さんから説明を受ける。長年、基地建設阻止の闘いをしておられ、「基地は絶対にできない、政府が諦めるまで闘う」と強い意志が感じられた。
松田ヌ浜では基地内で水陸両用車が訓練を行っていた。辺野古の新基地建設はいらないと参加者で声を上げた。
グラスボートで大浦湾を体験する。海が荒れており、波が高い。これも豊かな自然であると実感する。青サンゴやハマサンゴなど様々なサンゴやそこに住む魚たちが見られた。今回見たポイントは基地が建設される場所ではない。しかし、狭い大浦湾で基地ができることで潮流が変わるため、サンゴにも影響が出て、そこに住む生態系に影響が出る。多様性の豊かな海を守るため基地はいらない。
生まれも育ちもこの辺野古である東恩納さんから説明を受ける。グラスボートやエコツアーなどを行いながら辺野古の自然を守る闘いをされている。
2016年4月のうるま市女性殺害事件の遺体遺棄現場を訪れ追悼する。以前はお花や彼女の好きなキャラクターなどが供えられていたが、今は遺族の意向でお断りしている。この事件に誰もが「もしも私だったら」と感じずにはいられない。これも基地あるが故の被害だ。
この日の夕食はカレー。カレーチームとサラダチームに分かれて調理する。
2日目の夜の交流会は韓国側の企画・運営だ。「平和とは何か」。各自がポストイットに一言自分の答えを書き、模造紙に張り出し、意見交換する。
「平和とは、周りが助け合えること」と書いた日本の青年は、20歳の同僚がパワハラ、長時間労働の末、自死した事件を語った。「趣味の時間もなく、会話もない状況に追い込まれた。みんなが笑顔でいることが平和。小さなことが積み重なって平和ができると思う」。これを聞いた韓国の青年は「日常生活の中で一番平和をなくしていることは、労働者の搾取だと思う」と応じた。労働問題以外にも〝平和〟ではない身の回りの現実に思いがいたる。
「日本では政治に関心を持つ若者は多くない。政治を語れない、タブーがあった。韓国のろうそく革命には若い人の力が発揮された。どうしたらいいと思うか」。日本側から質問が出た。誰もが聞きたいことだった。
「中学生の時、初めてデモに出た」と韓国の青年が語り始めた。「狂牛病輸入の問題を知ったから。輸入牛肉が給食に使われる。自分の生活とつながっていること、当事者であることがわかれば動かざるを得ない」と答えた。「狂牛病世代」と言うそうだ。別の韓国青年は「大統領打倒は勝利と言えるか」と切り出した。「大学では、タブーは変わっていない。今の学生はセウォル号犠牲者と同世代。友人が亡くなった罪悪感や責任感を感じている。こうした経験を今後の課題解決の力につなげることだ」
政治の当事者であり、社会変革の担い手であることを青年たちが強く意識できる交流会だった。
◎1/12(土)〔3日目〕 ~嘉手納基地、普天間基地など今なお続く基地の被害~
植民地支配は必ず差別、虐待を生む。参加団は読谷村に建立された「恨之碑」を前にした。日本兵に連行される朝鮮の青年―徴用工を象徴的に表現したレリーフだ。碑は99年韓国に、06年沖縄に建立された。日本軍の性奴隷とされた「慰安婦」とともに、朝鮮半島から連行され、死に至った人びとの実相は長らく封印され、犠牲者1万人以上と言われるが全容は今も明らかではない。
チビチリガマでは当時の記録を残そうと聞き取り調査をしてきた遺族会の知花昌一さんがガマで起きた悲劇を説明する。「残されたものは老人と幼子と女。我が子を手にかけたのは母親だ。首から血が飛び散り、壕の中はパニックになった」。45年4月、米軍の攻撃から逃れるために避難したガマの中で強制集団死は起きた。142人の避難住民のうち85人が亡くなった。数か月の乳児もいた。
「我が子の身を一番に案ずる母親がなぜ、手にかけたか」と知花さんは問いかけた。差別されないために「死を選んで『立派な日本人』となるため」という誤った教育が背景にあった。「何が起こったか、ぜひ見てほしい」。知花さんの案内で、普段は入れないガマの中の暗闇を体験した。中には瓶や包丁、人骨までもがそのまま保存されていた。
旧日本軍中飛行場を拡張した嘉手納基地、米軍が朝鮮戦争のために恒久化した普天間基地。住宅地に居座る巨大な滑走路を望みながら、過去の戦争と今に続く被害を聞いた。嘉手納基地近辺に住む北上田源さんから爆音被害、土壌汚染、地下水汚染の被害を聞き、基地の一角にある明治時代の井戸を見た。住民の生活を奪った基地の存在を知った。
普天間米軍基地から爆音をなくす訴訟団の高橋年男さんからは激戦地の一つ嘉数(かかず)台地攻防で爆弾を抱いて突撃させられた朝鮮出身兵士のことを聞いた。普天間基地が一望できる展望台で、17年12月に相次いで起きた米軍ヘリ部品落下事件の説明を受けた。これも基地あるがゆえの被害だ。戦争は終わっていない。青年たちの心に深く刻まれた。
3日目は沖縄国際ユースホステルに宿泊する。夕食はバイキングだった。
夜の交流会では故ペポンギハルモニをお世話したキム・スソップさんのお話と日本側の活動報告を行った。日本側の報告は過労自死と闘う組合運動、反原発運動、「月桃の花歌舞団」の文化運動、広島の岩国基地のフィールドワーク、沖縄での基地建設阻止の闘いと多岐に渡った。その後も、
◎1/13(日)〔4日目〕 ~日韓ユース共同声明 私たちが東アジアの平和をつくる~
最終日、「平和をつくる日韓ユース共同声明」について討論した。学習・交流がベースとなり、原案への質問・意見が相次いだ。「日本の奨学金は学生ローンとなっているが、韓国ではどうか」「韓国では奨学金とは言わない。学費支援貸付金。問題は借金しなければならないほどの高額授業料にある」「朝鮮学校はそもそも制度の対象にもされていない」。そんな議論を経て文章は練りあがった。
声明文は、「戦争がなくてもこの現実は本当に平和なのだろうか」と基地被害に苦しむ沖縄をとらえた。そして自分自身の問題に引き寄せた。「命と人権が脅かされ、平和でないのは私たち青年も同じだ」と続けている。行動方針も追加された。その後、プラカード作りのワークショップを行う。この4日間で学んだこと、感じたこと、それぞれの思いがプラカードに表れていた。
まとめた声明文を手に、記者会見に臨んだ。地元2紙の記者が来た。参加団と同世代だった。地元記者は「沖縄のイメージは変わったか」と質問した。韓国の青年は「一般的に沖縄はすばらしい観光地のイメージ。悲しい歴史は知らない。外国の沖縄ばかりでなく、済州(チェジュ)の歴史も知らない。知らせていかねばと思う」と応じた。 「同世代の人に政治に関心を持ってもらうヒントはあったか」との質問には、日本の青年は「変化を求めると(相手は)居心地の悪さを感じるだろう。だが、自分とのかかわりを考えてもらう以外ない」と答えた。韓国の青年は「政治の話をすると嫌な顔をされる。でも、話す以外ない」と答えた。
4日間の濃密な日程を終え、私たちは平和について深く学び、考え、討議した。平和とは命と人権を守る不断の闘いによりつくられ、連帯とは遠く離れていても思い浮かべることで闘う力となるものだ。今後も日本と韓国の連帯を深める取り組みを進めていきたい。
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