パレスチナ連帯ツアーを終えて モハマド・アローシュさんの詩(1)大阪──淀川に映る光

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11月17日に帰国したモハマド・アローシュさん[PPSF(パレスチナ人民闘争戦線)政治局員、PWSU(パレスチナ労働者闘争ユニオン)委員長]が大阪について詩を書きました。

大阪──淀川に映る光

ムハンマド・アローシュ

大阪は、私の日本での旅の始まりを包みこんでくれた最初の都市であり、
他の街々を巡った数日後、再び戻ってきた場所でもあった。
まるで、道が広がる時も狭まる時も、そこから人間的な温もりへ入っていくための
“門”のような存在。
そして最初の瞬間から、大阪は「一度訪れて終わる街」ではなく、
“心が家族のような何かを残してしまうからこそ戻ってくる街”だと感じた。
大阪は、川が静かに落ちてきた石を受けとめるように、
訪問者を抱きとめ、そのまわりに光と水と鼓動を巡らせる。

滞在の初めの頃、私の周りはすべてが輝いて見えた。
話し、笑い、息づく街路。
歩くだけで物語になるような商店街。
黒門市場では、売り手たちの声と魚の色、季節の果物が入り混じる中で、
私は初めて、有名な“大阪のたこ焼き”を口にした。
熱い旨味が口の中で弾け、
まるで街そのものが私の肩に手を置き、“試してごらん、味わってごらん、そして忘れないで”と
語りかけてくるようだった。

驚きは市場だけではない。
日本で最も長い商店街――天神橋筋商店街を歩いたとき、
その長さは終わりがないように続き、
そこが単なる商店街ではなく、“生命の流れる人間の大河”であることを感じた。
数え切れない店々、ほほえむ多くの顔、
そして伝統と現代が一つの穏やかな線の中に融合して流れ続ける街の精神。

鉄道網は、日本の驚きの詩の別の章のようだった。
駅から駅へ、驚くほどの速さと正確さで移動でき、
最初こそ圧倒されたが、気づけば私は大阪の住人のように
それを自然に使いこなしていた。
まるで時間そのものが、この国では“遅れ方”を忘れてしまったかのよう。

だが、私を最も驚かせたのは技術ではなく、
毎日のように触れ合った日本の美しい習慣だった。
家に入る前の靴を脱ぐ作法、
オフィスや学校の一部でも同じように行われるそれは、
単なる習慣ではなく、
“共有された空間への敬意と気遣い”という言葉なきメッセージだった。

ある日、低い高度で伊丹空港へ向かう飛行機が頭上を通り過ぎたとき、
隣にいた友人の山川義保さんが、私の胸の内を読んだように
冗談めかして言った。
「大丈夫…大阪は爆撃されませんよ」
私は笑ったが、その言葉は心に痛みを残した。
“爆撃されない街”と、“火の下に取り残される街”――
その差についての深い問いが、胸に沈んだ。

日が経つにつれ、私は大阪を
単なる旅の通過点ではなく、“人間を抱きしめる広い胸”のように感じるようになった。
特に心に刻まれたのは、ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)が
開催した大規模な集会だった。
私はパレスチナ、そしてガザの傷について語り、
会場全体がひとつの人間的な波動で揺れるのを感じた。
輝く瞳、近づく心、
人間性が皆の肩の上に掲げられたような、
真に心に刻まれる瞬間だった。

大阪城の石の天守や古い庭を歩いたとき、
私は時の層の中を旅しているように感じた。
そこに立つ歴史は、折れない民のようにそびえ、
嵐がどれほど激しくとも祖国を胸に抱き続ける
パレスチナ人の姿が重なった。

そして道頓堀――
夜のその街は、踊る光と巨大な看板が生きもののように
歩く人々へ命を吹き込む、まるで祭りのような場所だった。
そこで再び、ZENKOの山川さん、森さんと会い、
彼らと過ごした時間は、街全体に愛情と人間性の印が刻まれるようだった。

最後の夜、
民主主義と社会主義の運動(MDS)の代表である佐藤和義さん、
そして多くの仲間たちと、
家のようにくつろげる小さな店で語り合った。
パレスチナのこと、世界のこと、
そしてどこにいても闘う人々がともに築ける道について。
その後、駅での別れへと移りゆき――
まるで夕暮れのように短いのに、長い影を心に落としていく時間だった。

さらに前夜には、MDSの会館で送別会が開かれ、
多くの仲間や友人が集まってくれた。
笑い、語り、歌い、そして涙した夜だった。
距離の重さを振り払うような涙。
私たちはパレスチナのために、自由のために歌い、
心を満たしながらインターナショナルを歌った。
あの小さなホールに、世界そのものがひとつに集まったようだった。

そして最後に、
淀川の岸辺にひとり立ったとき、
街は静かに眠りにつこうとしていた。
だがパレスチナは、一瞬たりとも眠らない。
私の内側で灯り続けるランプのように、
川面に揺れる光の一つひとつの中に、
パレスチナの存在が脈打っていた。

こうして大阪は、
私が“戻っていく街”となった。
その一部が私の中の一部になり、
パレスチナが私とともにその街を歩いたとき、
永遠に消えない光をそこに刻んだからだ。