
パレスチナ連帯ツアー神奈川集会(11月15日開催)は、150名の参加で大成功!
アローシュさんから生活を破壊されたパレスチナの人々の悲惨な状況と、それでも平和なパレスチナを夢に諦めずに闘うと訴えられました。

日本からも、全国各地でパレスチナ連帯行動をしていることをアローシュさんに紹介。

イスラエル企業ボイコット、抗議行動、企業攻めなど、足元からパレスチナの人々に連帯していきましょう!!
横浜を訪問して アローシュさんの詩
広島集会の翌日14日、横浜へ。

海上バスに乗って米軍ノースドック視察しました。揚陸艦や対潜水艦ソナー艦など見て、山下埠頭へ。

ヨルダン川西岸の暮らし向き(医療制度や医療事情、海まで行くのが困難で魚が手に入りにくいことなど)の話など聞きました。
また公園で楽しむ市民を見て、本当に平和は大切だと。
横浜を訪問してアローシュさんが書いた詩を紹介します。
横浜――歴史の灰の中から目覚め、海の鼓動に合わせて歩む街
ムハンマド・アローシュ
私の日本・横浜への訪問は、ただの通りすぎる旅ではなかった。
それは、生命が脈打ち、自らの特別な美を紡ぎ出す術を知る街へと踏み入ることでもあった。
およそ三百万人が暮らすこの街は、かつて街と建物に深い傷跡を残した数々の地震の被害から立ち上がり、今日では日本を代表する海辺の都市の一つとして立っている。
そして日本がいつもそうであるように、より強く、より澄み、過去と現在をひとつの調和した絵として結びつけながら蘇った街だ。最初の瞬間から、横浜の街路は毎朝光で洗い清められているかのように見えた。
驚くほどの清潔さ、流れるような静けさ、そして街角ごとに手入れの行き届いた小さな庭園。
広い街の中心では、スピード感あふれる鉄道駅が絶え間ないリズムで鼓動している。
日本の「時間の文化」と、細部を自らのアイデンティティと尊厳の一部として尊重する人々の精神が、この正確無比な列車運行を支えている。初日は、横浜の民主主義的社会主義運動の仲間たちが市の中心を案内してくれた。
近代的な建物が並ぶ通り、綿密に計画された歩道――そこでは偶然に任せられたものは何一つない。
日本の人々は、美しい礼儀と控えめな微笑み、誠実なうなずきで私を迎え、名前も背景も知らぬ前から、まるで親しい客人のように扱ってくれた。その後向かったのは、街で最も有名で色彩と喧騒に満ちた中華街だった。
料理の香りと赤い提灯の灯りが溶け合い、音や色が躍動する都市的な風景。
古い中華料理店で夕食をとり、伝統料理の味わいに、仲間との友情と温かな人間味が混じり合った。翌日以降は、経験がさらに広がった。
素朴だが本物のアジアの味に満ちたネパール料理店、そして辛さと熱気がまるで連帯の温度のように感じられる韓国料理店へ。
日本の多様性と開放性を味わうことができた。夜になると、海が私を呼んでいた。
小さな船に乗り、魅惑的な横浜湾へ出た。
静かな水面に街の灯りが反射し、その光景は夢のようだった。
もしそこに、米軍基地という武装された鉄の塊が景観を切り取らなければ――。
その存在は、この美しい場所でさえ、政治の重さと帝国主義の醜悪さを思い出させる。訪問中の最も印象深い場所の一つは、パレスチナ連帯ツアーの一環として神奈川県で開かれた大規模な集会だった。
多くの日本の友人たちが集まり、その前でガザとパレスチナについて語った。
話すたび、多くの人の目から涙が落ちていった。
言葉が二つの心をつなぐ橋となり、真実を語る心と、まっすぐに聞こうとする心が響き合っていた。
参加者の中には広島の被爆者の女性もいた。
彼女の瞳には日本の古い傷の記憶が宿り、ガザの痛みをまるで自らの記憶であるかのように感じていた。
また市民や子どもたちが私を抱きしめてくれた。
その純粋さと温かさの中で、私はパレスチナが政治問題にとどまらず、「心から心へ向かう道」なのだと実感した。横浜で旅人がまず驚くのは、初対面のよそ者をまるで以前からの住人であるかのように受け入れる街の力だ。
古い市場には、日本の深い記憶を運ぶ香りが漂う。
湯気を立てる出汁、鮮魚の匂い、そして寒い日に触れた手のように温かな緑茶の香り。
静かな路地では、人々が短い微笑みを交わし、それだけで旅の疲れがほどけていく。
街が、努力することなく安心を与える力を持っているようだった。この街は騒がしくはない。
ゆっくりと自らを差し出し、一歩一歩その美を発見させてくれる。
高層ビルだけではない、小さなものに宿る美しさ――
道端の湿った石、春を待つ桜の木、家々の間にひっそりと隠れる小さな祠(ほこら)。
それらすべてが街の心臓のように思えた。表面の静けさの裏に、横浜は深い痛みの記憶を抱いている。
破壊的な地震がこの街を襲い、多くの傷を残した。
しかし街は日本らしい強靭な精神で瓦礫から立ち上がり、最新技術と「街は再生できる」という信念を両立させた。
まるでこう語りかけているようだ――
「痛みは終わりではない。新たな始まりなのだ」と。
港も、街も、学校も再建され、冬のただ中から花が咲くように、瓦礫から再び生命が育っていった。今回の訪問は、ZENKOの仲間たちとともに、ガザのジェノサイドに抗議し、パレスチナ人民と連帯するための講演会・集会の準備の一環でもあった。
街を歩く間、日本の人々は心を開き、私の周りに集まり、パレスチナの人々、子どもたち、まだ乾ききらない血、そしてイスラエルが加えている不正について尋ねた。
その質問には深い誠意が込められ、偽りも打算もなかった。横浜――
灰の中から立ち上がり、海と旅人を抱きしめ、
「抵抗とは何か」を教えてくれる街。
そして、朝の雨のあとに輝く日本の街路のように、
心を清らかに保つことの意味を教えてくれる街である。
