第4回ZENKOユース参加団 in 沖縄【報告】

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5月3~5日、第4回ZENKOユース参加団in沖縄を開催し、関東・関西などから11人が参加しました。濃密なスケジュールの中で過去の沖縄戦、現在も続く基地被害の問題、そして豊かな自然を破壊しつくられている辺野古新基地建設について学びました。

1日目

辺野古

5月3日は辺野古の現地を訪れました。中山吉人さんに案内頂きました。GW中で工事車両の搬入は行われていませんでした。座り込みの現場であるキャンプ・シュワブゲート前テントでは1日3回の激しい阻止行動を継続し、交流・学習の場として存在するテントに思いをはせました。1分1秒でも遅らせる闘いで着工から5年で埋め立てはわずか8%しか進んでいません。また大浦湾側の軟弱地盤の問題があり、辺野古新基地は完成を見通せていません。

豊かな海を体感

西原瑠夏さんの案内でグラスボートに乗り大浦湾に出ると、海底にはアオサンゴ、ハマサンゴ、テーブルサンゴなどが広がっており、そこに5300種以上の生物と260種以上の絶滅危惧種が生息する“生物多様性の海”を体感しました。

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巨大な基地建設が進めば、濁り水や潮の流れの変化により、一気にサンゴが死滅する危険性が指摘されています。また漁師による監視船が沖合に停泊し、カヌーや船で抗議する人たちを監視しています。お金により地元住民を分断し、漁師の生産の場を奪っていることに怒りが湧いてきます。名護市瀬嵩で生まれ育った東恩納琢磨さん(名護市議会議員)は辺野古住民訴訟で4人の原告に「原告適格」がないとした那覇地裁の判決に触れ、「この国には三権分立がない」と憤ります。

2日目

5月4日は南部戦跡に行き、沖縄戦の実相について学びました。ガイドの大田光さん(沖縄平和ネットワーク)は、男子学徒隊の研究を行っています。

糸数アブチラガマ

糸数アブチラガマでは沖縄戦では600人もの負傷兵で埋め尽くされました。日本軍は入ってくるものはスパイとみなし射殺するよう、出ていくものはスパイとみなし射殺するよう命令した。ガマに食料備蓄があることを知っている地域住民3名が食料を求めてガマに入ろうとして射殺されており、撃ったのは同じ地域の住民だったのではないかと言われています。なぜ同じ住民同士で殺しあわないといけなかったのでしょうか。

ひめゆり平和祈念資料館

またひめゆり平和祈念資料館ではまだ10代の学生がどのように戦争に動員されたのかを学びました。沖縄戦では沖縄の21の師範学校・中等学校すべてで学徒隊が編成されました。学徒隊の動員は軍隊だけでなく、行政や学校が総動員して将来ある子どもたちを戦場に送り込みました。そこには戦争に“反対”と言えない社会の空気、同調圧力があったのではないでしょうか。現在、ロシアと戦争となっているウクライナでも国民総動員令が出され、18~60歳男性の出国を禁止しています。

平和の礎

平和の礎では宮城辰夫さん(当時17歳)名前が刻銘されています。戦闘で負傷し、動けなくなった辰夫さんに同級生だった山田義邦さんは手榴弾を手渡しました。しばらくして爆発音がしましたが、それが辰夫さんのものかは定かではありません。戦後、戸籍などが焼失しましたが、辰夫さんのお母さんは、辰夫さんが生きて帰ってくると信じ新しい戸籍をつくることを拒否します。

山田義邦さんは生前大田光さんに、「戦争の体験記はたくさんあり、自分の体験記はありふれたものである。自分がどれだけ苦労したのかを知って欲しいのではなく、それよりも知って欲しいのは為政者によって世論がつくられ、戦争に向かうことがある。そのことに敏感になり、しっかりと考えないといけない」と語りました。また山田さんが戦後、学校の求人募集の用紙に「第三国(沖縄人)はお断り」と書いてありました。沖縄が日本に“復帰”して50年経ちますが、過剰な基地負担など沖縄に対する差別は今も残っています。

首里城 日本軍第32軍司令部豪

首里城の下には日本軍第32軍司令部豪があります。沖縄戦の実態を後世に残すため保存・公開を求めています。また案内板について、「慰安婦」と「住民虐殺」の記述について反対意見が寄せられ、県は明確な資料が残っていないとその記述が削除されました。

3日目

5月5日は中部の読谷村・嘉手納・普天間に行きました。

読谷村 チビチリガマ・シムクガマ

読谷村では北上田源さん(沖縄平和ネットワーク)に案内頂きました。チビチリガマとシムクガマは対比的に語られるガマです。読谷村は沖縄戦の米軍の上陸地点です。米軍に迫られチビチリガマでは約140人の住民が避難し、捕虜になることを拒否し犠牲となる83人が“集団強制死”が起きました。

一方、シムクガマは約千人の住民が避難しましたが、ハワイからの帰国者2人が住民を説得し、投降したため住民の命が助かりました。

沖縄戦を学ぶことは、戦場では何が起きるのかを学ぶことにつながります。社会が戦争へと向かっている際に、戦争を止められた、また戦争による犠牲者を少なくできたいくつかの分岐点があります。同調圧力に流されることなく“戦争反対”の声をあげることの大切さを学びました。

読谷村は、戦前は畑であったが、戦争が始まると日本軍に土地を奪われ北部飛行場が建設されました。戦後も、住民が収容所にいる間に読谷村の95%が米軍基地となり、読谷補助飛行場としてパラシュート降下訓練などが行われます。1965年にはパラシュート降下訓練でトレーラーの下敷きになり小学校5年生の子が亡くなります。そのことがきっかけとなり、地主が土地返還闘争に立ち上がりました。また行政も村長を中心に、降下訓練の通知があると抗議を行います。憲法の理念を実践することを大切にし、憲法9条の碑を置いたり、部屋にも憲法99条(憲法尊重擁護の義務)の条文が書かれていました。

また米軍基地を返還させた後の跡地利用について考えていました。跡地利用は商業施設を設置することが多いですが、読谷村では跡地は農地にすると言い続けました。米軍基地を返還させた後、旧地主がつくる農業グループに土地を引き渡しました。豊かさとは何かを考えた時に、ショッピングセンターにするよりも、生産の場として使うことに読谷村の理念があります。

嘉手納基地

嘉手納基地は、全長3600mの滑走路が2本あり、全展開すると地球の3分の2をカバーするとも言われる巨大な基地です。平良眞知さん(第3次嘉手納爆音差止訴訟原告団)は騒音被害の実態を説明し、「沖縄の人は人間ではないように扱われる事件、事故が起きている」と訴えました。メインはF15戦闘機ですが、岩国基地よりF15・F35戦闘機、米国からF22戦闘機なども飛来してきます。年間離発着は5~6万回で、周辺住民は騒音による健康被害が起きています。2010年に嘉手納ラプコン(沖縄進入管制)返還後、那覇空港に管制拠点が移りましたが米軍機の離発着が優先され、民間機は約10kmの間、高度300mでの低空で飛行が義務付けられる危険な状態が続いています。

また米軍の泡消火剤などに使われているPFAS(有機フッ素化合物)汚染の問題が深刻です。PFASは「永遠に残る化学物質」と言われ、その一種であるPFOSは日本で製造が禁止されています。普天間基地のある宜野湾市では、地域の湧き水である喜友名泉(ちゅんなーがー)で国の暫定指針値の32倍という高濃度のPFASが検出され、住民の健康や暮らしを脅かしています。桃原功さん(宜野湾市議会議員)は、「米軍はPFOSは使用していないと言っているが、実態は分からない」と言います。

普天間基地

嘉数高台から普天間基地を望むと悪天候の中、オスプレイやF15戦闘機が訓練を繰り返していました。桃原さんは「厚木基地第4次爆音訴訟で高裁で自衛隊の夜間飛行が禁止となった。米軍機は対象外であったが、それでも画期的な判決であった。しかし、それも最高裁でひっくり返されている」と語ります。沖縄国際大学への墜落など、米軍機による事故は後を絶ちません。人々が生活する真上を、人殺しのための戦闘機が飛び、騒音、水の汚染、米軍による事件・事故などあらゆることで命が脅かされている異様な光景でした。

交流

毎晩交流会を持ち考えを話しあいました。参加者が口を揃えて「良かった」と話したのは、グラスボートで大浦湾のサンゴ礁を見たことでした。海の透明度が高く、様々な種類の珊瑚礁が段を成し、カラフルな小魚たちが住処にしている様子が鮮明に見えました。美謝川の流れが変わったら、埋め立てで湾の海流が変わったら、赤土が広がったら、全ての現象が欠かせない役割をもって維持されている大浦湾の生態系が壊されてしまうことを実感しました。

ガマの中では、人々が暗闇の中で恐怖と飢えに苦しんだ沖縄戦当時の状況を想像しました。「電気を消したら真っ暗。600人もいたなんて」と驚く半面、「真っ暗だったからこそ親友の死を見ずに済んだ」との女学生の証言を知り、戦争の惨さを感じました。2日目の交流会はオンラインで全国と繋ぎ「戦争のない世界をつくるために私たちができること」をテーマに話し合いました。ウクライナで戦争が続き日本では基地建設が進む現状に、「戦争のリアルを知らない政治家が戦争を煽っている」「対話を広げ大きな波にしよう」「声をあげることを諦めない」と学びを広げていくことを確認し合いました。最後にそれぞれの思いをプラカードに記入しました。

この3日間で「平和とは何か」を考えた時に、戦争のない状態はもちろんですが、戦争がなくても日々、命が脅かされている状態は平和ではないと実感しました。私たち若い人たちも、家庭で、学校で、職場で辛い出来事があり、精神を病んだり、時には命を絶ってしまうこともあります。平和をつくるには、戦争をなくすと同時に、社会の構造的な差別や貧困をなくしていくことが重要です。沖縄に連帯し、そしてともに社会を変えていきましょう。

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